1.まえがき
36名の同志が相集い「橋梁など土木構造物設計の技術を身につけよう」との熱い思いで高知県橋梁会を設立したのが昭和52年4月です。気がつけば,35年の歳月が過ぎていました。ここまでこられたのは,たくさんの方々にお世話いただいたお陰であり,感謝の念に堪えません。
40周年を節目に皆様方からいただいたご厚情や先輩たちの情熱を再確認させていただき,それらを記録に残して後生に伝えなければという使命感と高知県橋梁会の更なる発展に繋げたいという思いで,これまでの35年の歩みを振り返ることにしました。
2.発足当時
創立15周年を記念して「高知県橋梁会会報Vol.1」が発刊されています。それに,当時の株式会社サン土木コンサルタント社長の公文重徳氏と株式会社エスロック社長の北村孝氏が,高知県橋梁会発足当時のことを述べておられますので,その概要を紹介させていただきます。
昭和51年の3月頃,石川貴泉先生の呼びかけで掛川延寿,公文重徳,山崎英昭,北村孝の各氏が市内の喫茶店に集まり,その席で,「橋梁等土木構造物の設計のほとんどが県外企業でされている。県内企業の技術向上を図り,何とか県内でも設計ができるようにするため勉強会のようなものを作ろうではないか」と先生から提案が出され,1年後の昭和52年4月に「高知県橋梁・構造物技術者会」が発足しました。現在の「高知県橋梁会」です。
石川先生は昭和46年に高知工業高校を定年退職され,株式会社第一測量設計コンサルタントの社長に就任していました。
第1回の勉強会は初代会長になられた石川先生が講師となり「地表載荷重による高さ1m以下の橋台パラペットの土圧計算」と「道路側溝壁の土圧計算」,その後「終局荷重作用時の破壊に対する安全度,照査の計算例」などの勉強会が開催されていたようです。
3.村山会長の時代
安芸工業高校の校長を最後に定年退職し,株式会社サン土木コンサルタントの会長をされていた村山保先生が,石川会長に代わって昭和57年に第2代目会長に就任されました。
この頃から,毎月第一水曜日に理事会(一水会と呼ばれている)が行われるようになりました。理事はいずれも会社の要職にあり,多忙であることから,昼食を食べながら研修会での講演内容,講師の選定など橋梁会の運営に関わる協議が行われていました。一水会の会場は,最初は高須の談話室青山でした。後には南宝永町のビジネスホテルときわ(現在のエクセルホテル高知)で行われていました。
定例研修会は4月,6月,8月,12月で,臨時に10月と2月に開催されることもありました。研修会の会場は布師田にある高知県産業振興センターの研修室が利用されていましたが,懇親会がある4月と忘年会がある12月は,高知国際ホテルで開催されていました。
「立派な技術者である前に立派な人間でなければならない」が村山会長の信条で,「子曰く,学びて時にこれを習う,また説(よろこ)ばしからずや 朋有り,遠方より来る,また楽しからずや」,「少年老い易く学成り難し,一寸の光陰軽んずべからず」,「水は方円の器に従う」といった諺を繰り返し教えていただきました。
元内閣総理大臣 吉田茂の大磯の自宅をアポイントなしに訪問したという話,そのときに色紙に書いてもらった「心小欲而志欲大」の意味についても何度か話していただき,物怖じしない度胸と「当たって砕ける」の心意気が大切であることも教わりました。
高知県橋梁会では,発足当初から毎年の見学旅行が恒例行事になっています。参加者は例年20名程度ですが,村山会長が誕生した昭和57年には70名が参加しています。
4.玉井会長の時代
村山会長は,平成8年11月に高知国際ホテルで開催した創立20周年記念式典を締めくくりと考えておられ,平成9年度から玉井佐一先生に会長をバトンタッチされました。
玉井先生は,平成6年に高知大学農学部教授を定年退職され,株式会社第一コンサルタンツ取締役技師長に就かれていました。
人との出会いを大切にされ,テニスとウイスキーと演歌をこよなく愛しておられ,玉井先生がいると,自然とそこに人の輪ができ,絆が育まれました。
平成11年に1泊2日の日程で大鳴門大橋,北淡町の野島断層保存館,明石海峡大橋などを総勢33名で見学旅行したことがありました。酒豪が揃っていたこともあり,宿泊したポートピアホテルの夕食で飲んだビールや日本酒が半端な量でなかったので,ホテルのボーイがたいそう驚いたことが忘れられません。
思い出に残る見学会として,平成17年の大分旅行があります。宇佐市の石橋,耶馬溪の青の洞門,ピーシー橋梁の施工現場を見学し,株式会社ダイクレさんのご厚意で会員制ホテル「湯布院倶楽部」に泊めていただきました。翌日は,別府の地獄巡り,臼杵の石仏を見学しました。
平成19年には,明治45年に施工された餘部鉄橋の架け替え工事が開始されることから,撤去前の姿を一目見ておこうという旅行を企画しました。生憎,私は新潟県中越地震被害調査と日程が重なり参加できませんでしたが,玉井会長による天橋立の海浜浸食対策や香住漁港の防波堤に関する車中講義を聞きながらの旅は,玉井会長と最後の別れになったこともあり,参加された15名の会員にとって生涯の思い出に残る旅になったようです。
8月の研修会の後,講師と理事でビアガーデンに行き,暑気払いをすることも玉井会長の時代から始められました。懇親会や忘年会の後には,玉井会長を先頭にして高知国際ホテルの地下にあった「スナックセルビナ」や堀詰の「居酒屋赤狸」に行き,夜が更けるのを忘れて酒を飲み,語り,演歌を歌ったものです。
ずるいことをする人がいるとサッカーの審判のように,教育的指導と称して両方の手首をくるくる回してから右手人差し指をその人に向けるのが会長の愛情表現でした。玉井会長は温厚で慈愛に満ちていました。打算的な人,礼儀をわきまえない人,思いやりに欠けた人に対しては厳しく注意される真の教育者でした。
他人の悩みに対しては真剣に耳を傾け,勇気づけてくれましたが,ご自身のことで他人に迷惑や心配をかけることについては人一倍気を遣っておられ,最後にガンに冒されたときも,入院の直前までそのことを誰にも打ち明けることはありませんでした。
平成19年8月16日に国立高知病院に入院され,手術は成功したと聞いていたのですが,29日から容態が急変し,30日の早朝に他界されました。満77歳でした。
5.最近の状況
平成19年12月の研修会の後の臨時総会で、不肖私が第4代目の会長に選任されました。基本的には、村山会長、玉井会長のやり方を踏襲していますが、時代の変化に応じて変えた点もいくつかあります。
一つ目は、経費の節減を図るため、創立15周年を記念して平成5年から隔年毎に発行してきた会報をVol.8(平成19年)を最後に取りやめ、平成20年度から簡易な活動報告に切り替えると共に、高知県橋梁会のホームページを開設しました。
二つ目は、地域貢献活動です。平成20年から「高校生橋梁模型コンテスト四国大会」に審査委員として協力すると共に協賛金を出させていただいています。また、12月の研修会では高校生にも研究発表をしていただいています。
平成23年には、高知県橋梁会の高知地域における活動を高く評価していただき、土木学会四国支部から地域貢献賞をいただくことができました。
理事会は、エクセルホテル高知で開催していましたが、平成21年度からはサンピアセリーズで毎月第一水曜日に11時から13時に行っています。研修会は、以前は高知グリーン会館や高知共済会館で行っていましたが、平成21年度からは高知会館で開催しています。
少子高齢化の影響で会員の退会に歯止めがかからず存続の危機が叫ばれている学協会が少なくない中で、高知県橋梁会は毎年入会があり、平成29年9月時点での法人会員数は51社となっています。
「県外企業に負けない技術力を身に付けよう」という先輩達の志を忘れることなく、40年間コツコツと研修活動を継続してきた結果であると確信しています。
先代の会長からの教えを守り、橋梁会の更なる発展充実のために尽力して参りたいと思っています。
皆様のご指導、ご鞭撻を今後ともよろしくお願い申し上げます。